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松丸 隆  MATSUMARU Takashi

茨城県立水海道高校
大学2回生(54.3卒)

54 日立工機株式会社入社
56 フリーランスインダストリアルデザイナーとして独立
70 GKインダストリアルデザイン研究所 事務局長
75 株式会社タニタ デザイン室長
97 中国国際芸術研修所主任講師
07 逝去

日本デザイン学会会員
日本インダストリアルデザイナー協会会員
理事、事務局長及び委員長を歴任
国際芸術研修所、中国工業設計協会
無錫工業設計協会 各顧問
千葉大学工学部工業意匠学科、東北工業大学工業意匠学科、福島県立会津短期大学プロダクトデザイン学科 各非常勤講師
鄭州軽工業学院名誉教授、北京中央工芸美術学院講師、無錫軽工業学院講師

第2回 中国工業デザイン研修 1998年8月

中国 国際芸術研修所活動記録 1997-2007 (左)
タニタ 脂肪計付ヘルスメータ(右)

■ 中国にデザイン学校を創る──松丸隆氏のライフワーク
取材:工業意匠系同窓会

 松丸隆氏は、北京日本中学校3年次在学時に敗戦、茨城県に帰国した。県立水海道高等学校を経て、千葉大学工学部工業意匠学科を卒業。日本の優良企業の数多くのデザインを手がけた。その後、日本インダストリアルデザイナー協会理事・事務局長として、日本の工業デザインを牽引した。
 氏は、幼少時代を過ごした中国が生涯忘れられず、中国との交流を積極的に行った。そして、中国にデザイン学校創ることを生涯夢見ていた。氏は、そうした夢の実現の同志として、知己を得た中国の方々との思い出を、千葉大学工学部工業意匠系同窓会卒業生作品集「IDCU40」(1970年発行)に記している。(文章は1969年に書かれた)
以下は、その文章の冒頭と、氏と交流のあった方々のお名前を中心に抜粋する。

 還暦を控えて、感ずることが山積している昨今の私は、人生で一番充実している時期と自負している。8月の末から9月の末頃までの1ケ月、中国は南の広州から北は北京までを旅した。
 河南省鄭州市は省都である。~鄭州軽工業学院での講義~設立して日が浅く、先生方も若い。無錫の軽工業学院を卒業した若い夫婦の先生に逢った。~鄭州の講義は、成功だったと友人の楊君も自画自賛。
 ~北京中央工芸美術学院で半日講義。中国工業デザイン協会副会長の任維武氏とは、2度目で2年振りに逢う。
 ~無錫では、半日講義~中国のデザイン事情について張福昌と語り合う、彼は早く教授になって自分の理想と計画を実現したいと熱っぽく私に訴えていた。彼は~北京のIDの中心人物である任維武氏とも知己を得て~将来大いに希望の持てる、期待のできる夢多き中国男子である。~彼の夢は、私の夢でもある。中国に育ち中国が故郷のような私にとって決して他人事ではない。私のライフワークとして、彼に協力することに、私の生きがいを見つけ出すことが出来ることを願っている。

 

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